聖契神学校2022年度「霊性の神学Ⅱ」クラス作成
監修 吉川直美
聖契神学校の「霊性の神学」クラスでは、毎年、学生がアドベントの黙想を作成しています。
今年度は、第3アドベント(12月11日)からクリスマス(12月25日)までの15日間、聖書に登場する人々を通してイエスさまを思い巡らしていきます。アドベントカレンダーのように毎日 0 時にアップしていきますので、黙想のために用いていただければ幸いです。
なお、個人名は記載しておりませんが、著作権は「霊性の神学」クラスにありますので、無断転載、引用等はご遠慮ください。
12月25日(日)
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(2:11)。この知らせを受けたのは、社会から虐げられていた羊飼いでした。
なんでこんな自分たちに大切なことが告げ知らされたのだろうか。
しかしそこには喜びがあったことでしょう。社会の中で虐げられている私たちに目をとめてくださる方がいる。そんな喜びの中で、「主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう」と旅に出た羊飼いたち。そこでこの地に誕生したイエスと出会い、御使いが言ったとおりだったことを羊飼いたちは知りました。
あなたがたのことを神であるわたしは知っているよ。目をとめているよ。愛しているよ。
イエスとの出会いを通して、自分たちがどのような存在であるか、羊飼いたちは知ったのではないでしょうか。
今日はクリスマス。イエスの誕生を喜びながら、私たちもそれぞれの存在を喜んでいきたいと思います。
12月24日(土)
イエス誕生の知らせを受け取ったのは、東方の博士たちでした。天の星を見上げながら、不思議な星に目がとまりました。調べてみると、ユダヤ人の王としてお生まれになった方がいるらしい。星を手がかりにユダヤ人の王のもとへ旅に出た博士たち。すると、「星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるとことまで来て、その上にとどまった」(2:9)のです。この上もなく喜ぶ博士たちがいます。
ある出来事がイエスのもとへと導く。私たちはどのようにしてイエスのもとへと導かれてきたでしょうか。イエスとの出会いが私たちの人生に彩りを与えます。生きる喜びとなっていきます。今日も、イエスに出会っていく旅へと出ていきましょう。
12月23日(金)
80年以上イスラエルの時代の流れを肌で感じ、見続けてきた女性が当時そこで目にしたものはなんだったのでしょうか。いよいよ約束されていたエルサレムの贖いに神が動かれていることを目にした時、アンナは待ち望んでいる全ての人に幼子が神の計画によってこられたことを語りました。
私たちは自分の人生の計画に待ち望みます。神が自分に関わってくださったことに、語らずにはいられない感動を体験することはあると思います。 自分の人生にも最善な介入をしてくださっていると同時に、全ての人、全ての被造物を贖う神の計画が私たちにも委ねられながら成就しようとするその計画はなんと壮大でしょうか。
12月22日(木)
天使ガブリエルから神の子を身籠ると知らされたマリアは親戚のエリサベツを訪ねた。不妊の女と言われていたエリサベツが、6ヶ月前に身籠ったことを知らされたからであった。
月が満ちて、エリサベツが男の子を産んだとき、近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きな憐れみをかけてくださったと言って、彼女と共に喜んだ。
子どもができなかったことは当時の女性にとっては大変な負い目であった。しかし、主の憐れみはそんな世間の冷たい視線に晒されているエリサベツに注がれた。
イサクの母サラ、サムエルの母ハンナも不妊の女だった。
そんな願っても子が与えられなかった女性たちから生まれた彼らは、主の道を整える者たちだった。そして主はその母たちをこの世にあって祝福で満たした。「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」とマリアに向かってエリサベツが語ったが、これはエリサベツ本人にも向けられているのだ。
あなたが相手に向かって主の祝福を祈るとき、その祝福はあなた自身にも向かうのだ。それはあなた自身が主の祝福で満たされているから祈れるのである。
12月21日(水)
子どもが生まれるまでの約40週、女性の身体は日に日に変化していきます。新しいいのちから始まる神の計画、女性はそれを肌で実感できるかもしれません。その神の計画を味わうようにと、半ば強制的に「沈黙」の中に置かれたのがザカリヤでした。神の計画の傍観者ではなく、参画者として神様が置いてくださったのでしょう。
約1年の沈黙をザカリヤはどう過ごしたのでしょうか。マリヤの訪問と滞在は彼の目にどんな光景として映ったのでしょうか。再び口が開けるその日まで、彼は「味わい、見よ」の世界を生きました。
今、あなたが置かれている場所で、ふと立ち止まり、味わい、見る時、どんな神の計画が映るでしょうか。
12月20日(火)
罪の世にあって、私たちは罪に鈍感になっている自分を見出します。
神を愛し、不正に激しい怒りを表すダビデは、ナタンによって自らの罪を指摘され、自分の罪深さにおののき、神のあわれみにすがり、請い願います。
「私の罪から私を清めてください。」と
罪を犯す者である私たちの間にイエスは生まれてくださいました。そして、あなたの罪のために、全人類の罪のため、十字架にかかり、私たちを罪から救い出してくださいました。
罪人による争いの世にあって、アドベントのこの日、和解の主イエス・キリストに心の目を向けて静かに祈りましょう。
12月19日(月)
夫も二人の息子も亡くし、全てを失って、モアブの地から故郷ベツレヘムに帰ってきたナオミに寄り添っていたのは異邦人であるモアブの女ルツだけだった。
神からさえも見捨てられたと失意に沈むナオミをささえるのは異邦人のルツ。
しかし、神はナオミを決してお見捨てにはならなかった。神は昔も今もこの世において見捨てられた者に目を向け、寄り添っておられるのだ。
ルツとボアズからの子供は老いたナオミの魂を生き返らせ喜びで満した。その子オベデからエッサイが、エッサイからダビデが生まれる。そしてダビデの家系からイエスが生まれる。神はルツによってナオミに、そしてイスラエルに、そして全人類に希望の小さな光を灯された。
アドベントのこの日、あなたのために貧しい家畜小屋でお生まれになった神の子イエス・キリストに思いを馳せ、経済的にも霊的にも貧しさの中で苦しむ世界に和解の光が隅々にまで届くことを願い祈りましょう。
12月18日(日)
「私は祝福されているのだろうか?」。子がいないハンナ、彼女の率直な問いはこのようなものだったのではないでしょうか。毎年主を礼拝しに行くたびに「私は祝福されているのだろうか」と思ったかもしれません。彼女の心の痛みはいかほどのものだったでしょうか。
この場面、不思議に思うことがあります。彼女はいったいどんな「神イメージ」を持っていたのでしょうか。痛み、疑い、あるいは怒りさえ神に対して抱いていたかもしれないハンナ。そんな彼女はどんな神イメージを持ってこの時祈ったのでしょうか。
アドベントを過ごすひととき、あなたはどんな神イメージを持って祈り、クリスマスを迎えようとしているでしょうか。
主よ、人々が「神の愛を受け取る」ことができますように。また、「神の愛が自分のためである」と知ることができますように。良いクリスマスを。
12月17日(土)
ヘロデ王への来訪者が言います。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、そこにおられますか。」(2:2)。
突然、自分の王としての地位が脅かされました。私たちも咄嗟の出来事の中で、自分の存在意義が脅かされることがあります。何かにしがみついて生きる時、それを失うことの恐れと不安がいつもあります。
私たちは、今、何にしがみついて生きているでしょうか。しがみついてしまいやすいものはなんでしょうか。イエスの誕生の知らせは、何かにしがみついて生きる者にとって恐れと不安を生じさせますが、何も持たない者にとって喜びと平安を与えます。
何も持たずとも私たちを愛してくださる方がいる。そのことをイエスの誕生は教えてくれるのではないでしょうか。
12月16日(金)
愛する息子が自分の分の財産を要求した後に、どこかに消えた。 そして歳月が流れ、凄惨な姿をして遠くから歩いてきている。 父親はそんな息子を遠くから見つけ、駆けつける。父親は次男が受けなければならない侮辱を代わって受け、先に赦し、先に律法を破って駆けつける。
父親にとって、次男のいない家庭は壊れた家庭だった。誰もその次男に代わることはできなかった。父は次男が帰ってくるのを待って待って、ひたすらに待っていただろう。
次男が帰ってきてから、その家庭は本来の姿に戻った。
次男を失った時の悲しみと、彼が再び戻った時の喜びは、私たちの想像をはるかに超える節制できない感情だったはずだ。
この次男の例えは、今日さまよいながら苦しんでるすべての人の話だ。
今も依然として、家を出て道の上でさまよっている人々が、腕を大きく開いて待っている父のところに帰ってくることを願う。
私たちに父の心をください。
12月15日(木)
人々の冷たい視線、死の恐怖が、私は怖かったのです。
忠誠を誓いましたが、恐れであなたを否定した自分の姿に失望して、隠れたかったのです。そんな私に主がまた訪ねてきて問いかけます。
「あなたはわたしを愛しますか」
すぐに答えられず躊躇する利己的で弱い自分の姿に、再び失望します。
「あなたはわたしを愛しますか」
問われたとき、私の中に主を否定して逃げた昔の自分の姿が浮かびます。
また隠れたくなります。 そんな私に主はまた尋ねます。
「あなたはわたしを愛しますか」
はい、主よ、あなたを愛します。
あなたのいない私の人生は漆黒の闇でした。しかし、あなたは私を最後まであきらめませんでした。あなたのその粘り強い愛が私の恐怖を覆い隠しました。
私の巨大な「恐怖」を「愛」で癒し、私の人生の光として来られた私の救い主、私の癒し主イエス・キリスト。あなたを愛します。
12月14日(水)
私たちが誰かをライトで照らそうとするなら、私たちが影を作り、光が届かないところが出てくるかもしれません。しかし、イエス様はすべての人をあらゆる角度から照らすことができる光。 神の大いなる計画は人間には計り知れないものですが、神の手の届かないことはなく、光に照らされることのない人はいません。背を向けるような辛い時、温かい光を感じるのではないでしょうか。
12月13日(火)
十二年の間長血をわずらった女性がいました。
当時、この病気を患う人は不浄と見なされ、村で中の人々に軽蔑されました。
ああ、私に希望なんてあるだろうか。
「病と孤独」
この女性は毎日、闇と悲しみの中で崖っぷちに立っているような人生だったのでしょう。
しかし彼女の人生に一筋の光が差しました。彼女は真っ暗闇の中、光を見たのです。
闇と悲しみの中で輝く一筋の光、イエス・キリストを。
それは彼女にとって残された唯一の選択肢だったのではないでしょうか。
彼女はその光に手を伸ばしました。
イエス様、助けてください。
今日の私たちも崖っぷちに立っているようなことがあります。
終わりの見えないコロナの状況。
肌で感じるほど近づいてきた気候危機。
それぞれが私利私欲のために起こす戦争。
しかし、私たちは真っ暗闇の中でも光を見ることができます。
暗ければ暗いほど、より輝くイエス様という光を。
どうか私たちの目が、暗闇の中でも唯一の光、イエス様を見ることができますように。
12月12日(月)
残念ながらヨセフのセリフは聖書には一度も出てきません。けれども、彼は「神の子」である幼子を育てるという使命に生きました。周囲からは冷たい目で見られ、王からは命を狙われる。そんな幼子を彼は「この地上においては少なくとも私の子どもだ」と心から愛したのでしょう。
見ず知らずの地で生活をし、石切りの粉塵を吸いながら家庭を支え、おそらく若くして、しかも「いつの間にか」聖書から、この地上から姿を消すヨセフ。
記録には残らずとも、イエスとマリアの記憶には残る数々のヨセフの愛があったことでしょう。見えない、聞こえないヨセフの愛は、世界に希望を与える方へつながりました。
今の時代を生きるあなたの記録に残らない愛は、再び来られる方、希望へと続いています。
12月11日(日)
イエス様の誕生と人類救済という神の大いなる計画の中で、御使いは神の計画を伝えにマリアのもとへ来ました。
私たちは御子の誕生の特別な出来事や、目に見えて主がなされたことに目をとめます。
聖霊によって身籠ること、イエス様の数多くのみわざ、死に打ち勝たれた栄光…。
今立ち止まり考えてみましょう。恵まれているとは何でしょうか。
まず、神である主が、共におられることではないでしょうか。
主が共におられるという特別な恵みが、お一人おひとりにありますように。
12月10日(土)
旧新約聖書の要約と言われているみことばです。愛する者のために贈り物をするとき、長い間その人のことを思いつつ準備をします。神は私を愛して、永遠の初めから愛の内に最高の贈り物を準備してくださいました。その贈り物とは、かけがえのない神のひとり子イエス・キリストでした。天上における父、子、聖霊の神の栄光を捨て、暗く冷たいこの地上に。さらには、私に代わって呪われた者として十字架にかかり、死んでくださいました。それによって「永遠のいのち」という贈り物にあずかれるのです。数々のクリスマスプレゼントも、この贈り物なくしては意味がありません。
主よ、人々が「神の愛を受け取る」ことができますように。また、「神の愛が自分のためである」と知ることができますように。良いクリスマスを。
12月9日(土)
旧新約聖書の要約と言われているみことばです。愛する者のために贈り物をするとき、長い間その人のことを思いつつ準備をします。神は私を愛して、永遠の初めから愛の内に最高の贈り物を準備してくださいました。その贈り物とは、かけがえのない神のひとり子イエス・キリストでした。天上における父、子、聖霊の神の栄光を捨て、暗く冷たいこの地上に。さらには、私に代わって呪われた者として十字架にかかり、死んでくださいました。それによって「永遠のいのち」という贈り物にあずかれるのです。数々のクリスマスプレゼントも、この贈り物なくしては意味がありません。
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12月8日(土)
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12月7日(土)
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12月6日(土)
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12月5日(土)
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12月4日(土)
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12月3日(土)
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12月2日(土)
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12月1日(土)
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11月30日(土)
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11月29日(土)
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11月28日(土)
旧新約聖書の要約と言われているみことばです。愛する者のために贈り物をするとき、長い間その人のことを思いつつ準備をします。神は私を愛して、永遠の初めから愛の内に最高の贈り物を準備してくださいました。その贈り物とは、かけがえのない神のひとり子イエス・キリストでした。天上における父、子、聖霊の神の栄光を捨て、暗く冷たいこの地上に。さらには、私に代わって呪われた者として十字架にかかり、死んでくださいました。それによって「永遠のいのち」という贈り物にあずかれるのです。数々のクリスマスプレゼントも、この贈り物なくしては意味がありません。
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