聖契神学校2023年度「霊性の神学Ⅱ」クラス作成
監修 吉川直美
聖契神学校の「霊性の神学」クラスでは、毎年、学生がアドベント(待降節)からクリスマス(25日まで)の黙想を作成していますが、実は教会暦では、クリスマスイブ(24日)からエピファニー(顕現日)までが降誕節(クリスマスのお祝い)です。
そこで今年度は、12月3日の第1アドベントから1月6日のエピファニー(顕現日)まで、おおむね一日おきの黙想を作成しました。(12月3日、6日、8日、10日、12日、14日、16日、18日、20日、22日、24日、25日、27日、29日、31日、1月2日、4日、6日です。)
また、平和の失われた今年を振り返り、お生まれになられた幼子が、イザヤ書9章6節に預言されている「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」であることを思い巡らしています。
アドベントカレンダーのように0 時にアップしていきますので、黙想のために用いていただければ幸いです。
なお、個人名は記載しておりませんが、著作権は「霊性の神学」クラスにありますので、無断転載、引用等はご遠慮ください。
1月6日(土)
イエスは暗く、汚い飼い葉桶でお生まれになられました。そしてこのお方は、インマヌエルと呼ばれるお方でした。これは、イエスが<私たちと共に歩んでくださる>お方であるということです。
私たちは、過ぎた1年を振りたいと思います。
自分のうちに起きた「うれしかったこと」「悲しかったこと」はどんなことでしょうか。
また「自分の罪深さ」を知ったことは何でしょうか。
そして、私たちは、その全ての場所にイエスがずっと一緒に歩んでくださったことを思い巡らしましょう。 あなたの喜びにも悲しみにも、不甲斐なさにも寄り添い続けてくださったイエスに心を留める時に、あなたの人生の窓から見える新しい景色はありますか。
1月4日(木)
これはバビロン捕囚期に語られた、主の言葉です。約束の地に帰還するために、捕囚の民たちは荒野を通らなければなりませんでした。
私たちも荒野を歩むような経験をします。ある意味、私たちの人生全体が「荒野」に喩えることができるかもしれません。
主はご自身の真実にかけて、神の民を約束の地へと確かに導いてくださいます。ところが、私たちは荒野を通らなければ、約束の地に辿り着くことはできません。
荒野の中で、私たちは時に盲目になります。主が「すでに」なされている新しいことに気づかずに、歩みを進めようとするのです。そして、ますます路頭に迷ってしまう。しかし、そんな私たちに主は今日も「見よ。」と語られます。
先の見えない荒野を彷徨う時も、神の民である私たちには希望があります。なぜなら、道なき道に新しい道を切り開いてくださる主が、私たちと共におられるからです。そして、日々歩く道に散りばめられた「新しい芽生え」を見せてくださるからです。
やがて訪れる「神の国の完成」に至るその時まで、神の民を確かに導いてくださる方と共に、今日というー日を一歩一歩噛み締める2024年となりますように、共に祈りましょう。
次は6日(日)(最終)
1月2日(火)
主イエスは私たちに平安を与えてくださいます。心が不安や恐れ、怒りや悲しみに襲われる時、私たちの心にそっと触れてくださり、慰め、励まし、癒してくださいます。そして、平安に満たされた人は隣人を愛し、その周りに平和をつくりだす人にされていきます。
今、あなたの心はどんな思いで満たされていますか。家族や友人へのいら立ちですか。将来への不安ですか。それとも辛い出来事からの悲しみでしょうか。
私たちのどんな心も主イエスは知っていてくださり、いつも隣にいて平安を与えてくださいます。今ある心の重荷を主に委ね、キリストが与えてくださる平安に満たされるよう、心を静めるひと時を持ちましょう。きっと、平和の君である主が応えてくださいます。
次は4日(木)
12月31日(日)
王の仕事とはなんでしょうか、政治の仕事とはなんでしょうか。
私は平和こそが、その中心に位置するもののように思います。
平和には綺麗事では済まされない必要性があります。
それはこの2023年、たった1年を振り返るだけでも容易に理解されます。
世界では戦争が続いています。
「平和の都」(エルサレム)でさえ戦争が起こっているのです。
この世界には争いが、あふれています。
それは対岸の火事ではありません。
争いが平定されれば、それは平和でしょうか。
心に憎しみがある限り、平和は常に脅かされます。
私たちの内にも、その火種はあるのです。
私たちの主、平和の君なる支配者は、人の心を探られます。
心の中を探り、心の中の争いに目を向け、
赦しと愛の極みを武器に真の平和を生み出してくださる方です。
次は1月2日(火)
12月29日(金)
永遠の父である、この方は、正義と恵みに満ちておられます。
事実、御手をもって、契約の民を解放され、導き出されました。
その方が、人としてこの世界に来、共にいることを選んでくださったのです。
この方は、永遠に共にいてくださる、頼れるお方です。
愛のまなざしを、今日、私たちにも向けてくださっていることを味わいましょう。
次は31日(日)
12月27日(水)
私たちの天の父は、常に正しくあろうと努力し、一生懸命祈り、聖書を熱心に読む人のところにだけ来られる方でしょうか。
イエス様は病の人、罪の中にある人、道に迷っている人のところに来てくださいました。そしてイエス様に出会った人々は、それまでの自分が打ち砕かれ、へりくだり、主の霊によって新しく生きるものとされました。
今、私たちには聖霊が与えられ、赦され、主の愛を受けています。
どんなに私たちが弱く、愚かであっても、心砕かれて罪を告白し、へりくだる姿を主は喜んでくださいます。
主はいつまでも怒られず、両手を広げて私たちを迎え入れて下さるお方です。その愛の結晶であるクリスマス。永遠に共にいてくださる天の父に心を向けるひと時を過ごしましょう。
次は29日(金)
12月25日(月)
私たちは愛する存在には良いものを与えようと願うものです。
しかし私たちは不完全なので、時として良かれと思い傷をつけ、良かれと思い溝を広げてしまいます。思いはあっても、私たちは不完全な”悪い者”なのです。
私たちは”良い方”を知っています。
私のことを愛し、思いだけではなく最良のものを与えてくださる方です。
今日はクリスマスです。父なる方は最良の贈り物を与えてくださいました。
御子イエス・キリストです。この方こそ、私たちの心をほんとうに満たしてくださる方です。
最高のプレゼントを覚えて、メリークリスマス。
次は27日(水)
12月24日(日)
私たちが祈る言葉の多くは「あなたのおことばどおりに、この身になりますように。」と祈ったマリアのようではなく、「わたしのことばどおりに、この身になりますように。」という祈りではないでしょうか。それは決して悪い祈りではありません。ただ、マリアの祈りは、私たちが自分の事柄に向かっていきやすい傾向から意図的に距離をとるかのようであります。
正直なところ私たちは、祈りに貧しい者です。祈りに身が入らないことがあります。いつもの言葉をいつものように繰り返している、ということもあるでしょう。そのような時にこそ私たちは、他人の祈りから学びたいのです。一見マリアの祈りは、信仰者として美しすぎるように感じる、模範的な祈りでしょう。こんな祈りはとても祈れないと思います。ただ、この祈りが聖書に記され残されてきたことは興味深いことです。おそらく私たちは、信仰の先輩であるマリアからも祈りを学ぶことができるということなのでしょう。祈りの豊かさを、祈りの広がりを、祈りの深みを、私たちは聖書の世界から学んでいけるのです。
次は25日(月)
12月22日(金)
なぜ、神様はあえて、処女マリアからイエスを生まれさせたのでしょうか。人間の知る知恵の範囲を超えたことというのは、いつの時代も、科学が進歩してもなお、常に存在しています。
もしあなたがマリアの立場に置かれたら、あなたは大天使ガブリエルになんと答えるでしょうか。
自分の常識・思い込み・知っていることだけにとらわれすぎる時、神が与えて下さろうとしている大きな恵みを失う可能性があることや、すでにある恵みを見失っている可能性に、思いをめぐらせてみましょう。
「お言葉どおり、この身に成りますように。」
もし、あなたに今、心の葛藤があるならば、この言葉を、マリアと同じように、素直に告白して祈っていきましょう。
あなたと共におられる、力ある神が、あなたと周囲を、計り知れない恵みで祝福してくださいますように!
次は24日(日)
12月20日(水)
飼い葉おけに 眠る 赤ちゃん イエス。
このすやすやと眠る赤ちゃんは、力ある神だと聖書は語ります。
私たちの「力」は、生まれてから身に着けていくもの、経験を蓄えて発揮していくもの、身の回りの物を工夫し用いて強い作用を生み出すもの、と考えられるでしょう。
このお方の力は、地の基を据え、全世界を照らし、導き続ける存在そのものです。
エレミヤは、このお方の声を聴く中で、主に語り掛けます。
『主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。』
私たちも、エレミヤに声を合わせ、主に語り掛けましょう。
私たちは、この力強い御手の中に今日も生かされています。
次は22日(金)
12月18日(月)
星を通してイエスのもとに、招かれたのは東方の博士たちです。
彼らはイエスが生まれたベツレヘムから約1300キロ離れたバビロンの地にいた、と考えられています。彼らの生活環境は、聖書の世界観とはかけ離れていたはずです。
彼らの住む町には多くの偶像があり、誘惑も多かったことでしょう。神でないものに彼らの心を向けさせる十分な環境だったことでしょう。
しかし、神は、そんな彼らをイエスの元に招いたのです。
この神は、あなたのこともイエスの元に招く神です。これまでのあなたの人生が、どのようなものであっても、ためらわずイエスの元に招く神です。 静まってみましょう。そして自分の人生を辿りつつ、あなたの人生に起きた<神の招きの事実>を思い巡らしてみましょう。
次は20日(水)
12月16日(土)
イエスが井戸のそばで休まれていると、人気のない真昼の暑い中、サマリア人の女性が一人、水汲みにやってきます。彼女は、人目を避けなければならない事情を抱えながら長い間過ごしてきたのでしょう。そんな彼女にイエスは、どのような行動をとるべきかということを助言され、それを実行する力をお与えになりました。
「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。……」ヨハネ4:29
彼女はイエスを救い主と信じて町へと出かけ、人々に伝えます。
すると、その町の多くの人々もまた、イエスのもとにやってきて、イエスが救い主であると信じたのでした。
この当時のユダヤ社会は男性優位で、女性は低く見られていました。けれどもイエスが語りかけられたのは「女性」であり、しかもユダヤ人からは言葉を交わすことは「汚(けが)れ」とされていたサマリア人です。イエスは性別も民族も関係なく、救いの手を差し伸べられたのでした。 このお方は、今も変わらず、私たちに救いの手を差し伸べてくださっています。
次は18日(月)
12月14日(木)
私たちは、イエスというお方をどのように理解しているでしょうか。
サマリアの女性は、これまでのイエスとの会話を通して得られた情報からイエスに言います。「あなた(イエス)は預言者だとお見受けします」。
ただしイエスは、これまでにイスラエルの歴史の中で見られるような預言者ではありません。ご自身が「神の子」であることを度々分かち合ってきました。
しかし、預言者だと言った彼女の告白を、イエスは否定なさらなかったのです。そして、続けてイエスが語られることに耳を澄ませる中で彼女は気づいたでしょう。
「このお方(イエス)は、私が知らない礼拝の光景を知っている。」
イエスは、私たちが理解している以上のお方です。彼女はイエスとの対話を続ける中で、イエスに抱いていたぼやっとした印象が、よりキリッと具体的に表されていきました。
私たちも彼女と同じように、このお方がどんなお方なのかをより詳細に、より人格的に知っていくことができる人生へと招かれています。イエスとの対話を通して益々このお方を知っていくことができる幸いがあるのです。クリスマスとは、これまでは遠くに感じていた神という存在が、イエスが生まれることを通してより近く感じられるようになった奇跡の日です。
次は16日(土)
12月12日(火)
「神の国」という表現は、かつて日本では、聖書で使われている意味とは違い、他国に対する優越感や万能感を示し、戦争肯定に使われた歴史的事実があるので、今でも、この言葉を聴いただけで拒絶反応や嫌悪感を示す人たちも、まだまだ日本には大勢います。配慮が必要です。
しかし、聖書が示し、イエス・キリストが語った「神の国」とはそのようなものではありません。イエス・キリストは、それはわたしたちのひとりひとりの、日々の選択と決断の結果、実現していくことだと示しました。
救い主イエス・キリストは、悪魔や罪の支配下から人々を解放し、「神の国」を地上にもたらすために来られました。
今日、「あなたは」、「神の国」を実現し、あるいは、少しでもあなたの周囲に広げるために、何ができるでしょうか。あなたから、何が周囲に伝わっていくでしょうか。
祈りつつ、希望をもって、楽しく一日を始めましょう。
次は14日(木)
12月10日(日)
この女性は苦しんでいました。
自分ではどうすることもできない状況にありました。
彼女は唯一の希望のイエスの後ろから近づいて、着物に触れたのでした。
多くの群衆が取り囲んでいるにも関わらず、イエスは振り向いて、その姿に目を留められました。
私たちもまた、自分ではどうすることもできない状況で苦しむことがあります。
イエスという方は、苦しみにじり寄る私のことを目に留められるお方です。
イエスに見られ、みことばを与えられるとき、私たちは癒されるのです。 この方は「不思議な助言者」と証しされています。
英語の聖書ではWonderful Counselorと訳されています。
私たちを癒すために来てくださった素敵なカウンセラーに、心を開くことは幸いではないでしょうか。
次は12日(火)
12月8日(金)
この言葉は、神が預言者イザヤを通して、アッシリアの勢力下にあるイスラエルの民とその王アハズに向けて告げられたものです。
闇には光がなく、何も見ることができません…
闇は私たちの生活の身近なところにもあり、もしかすると、今まさに、あなた自身、あるいはあなたの大切な人がそのような中におられるかも知れません。
世界に目を向ければ、アフガニスタン、ミャンマー、イエメン、ウクライナ、シリア、ソマリア、南スーダン…何年も何十年も紛争状態にある地域やイスラエルとハマスのような戦闘が激化している地域があり、多くの⼈たちが犠牲となり、多くのものを失い、不安や混乱、絶望的な状況の中におられるのではないでしょうか。 2700年前のイスラエルの民もそのような中にありました。そこへ神はイザヤを通して、大きな光を与えると語られたのです。この言葉は、イスラエルの民だけでなく、現代を生きる私たちにも向けられています。大きな光──その光り輝くものこそ…主イエス・キリストなのです。
次は10日(日)
12月6日(水)
イエス・キリストの誕生を待ち望む降誕節(アドベント)。
イエス・キリストの生涯はまさに「助言者」「神」「父」「君」という人を導く存在でした。
しかし、そのまさに私たちを導く方がみどり子として来られ、人と共に成長し過ごされたことをまず覚えたいと思います。
みなさんは、どのような人に導かれたいと思うでしょうか。
私なら自分たちのことを知識ではなく、体験を通して理解してくれる人、
共に歩む人の気持ちを理解してくれる人に導いてほしいと願います。
イエス・キリストの降誕はまさに私たちの心に寄り添う出来事でした。
人としての歩みを一歩一歩進まれた方と、その背後にある愛を覚えつつ、
これからの1ヶ月、私たちと共にひと時、祈りませんか?
次は8日(金)
12月3日(日)
みなさんにとって、2023年というのはどのような年だったでしょうか。そして、あなたは今、来たる2024年に何を望んでいますか?
心身の健康、平穏な暮らし、成し遂げたい目標。誰もが実りある豊かな一年を願っていると思います。
しかし、ふと、視線を世界に移してみるならば、無視することができない争いの現実があります。
昨年から続くロシア・ウクライナ戦争、イスラエルとハマスの争いをはじめ、世界中が痛みを経験しています。
「この世界に希望なんてあるのだろうか?」
平和を求める叫びが私たちの元に届き、そして私たちの声となる。そのような1年を過ごしてきました。
このような時だからこそ、私たちキリスト者は声を大にして宣言します。
「この地に来られたイエスこそ平和の君である!」と。
神の子であるにも関わらず、罪と死と悪が蔓延るこの世界に、無力なひとり子として来られたイエス。このお方が来られたことの意味を思い巡らしながら、私たちが、今、この世界に生かされている意味を共に受けとめる1ヶ月を過ごしたいと思います。
次は6日(水)