聖契神学校2021年度「霊性の神学」クラス作成
監修 吉川直美
主を待ち望むアドベント
聖契神学校の「霊性の神学」クラスでは、毎年、学生がアドベントの黙想を作成しています。
第1アドベント(11月28日)からクリスマス(12月25日)までの28日間、アドベントカレンダーのように毎日0:00にアップしていきますので、黙想のために用いていただければ幸いです。
なお、個人名は記載しておりませんが、著作権は「霊性の神学」クラスにありますので、無断転載、引用等はご遠慮ください。
- 1. 12月25日(土)
- 2. 12月24日(金)
- 3. 12月23日(木)
- 4. 12月22日(水)
- 5. 12月21日(火)
- 6. 12月20日(月)
- 7. 12月19日(日)
- 8. 12月18日(土)
- 9. 12月17日(金)
- 10. 12月16日(木)
- 11. 12月15日(水)
- 12. 12月14日(火)
- 13. 12月13日(月)
- 14. 12月12日(日)
- 15. 12月11日(土)
- 16. 12月10日(金)
- 17. 12月9日(木)
- 18. 12月8日(水)
- 19. 12月7日(火)
- 20. 12月6日(月)
- 21. 12月5日(日)
- 22. 12月4日(土)
- 23. 12月3日(金)
- 24. 12月2日(木)
- 25. 12月1日(水)
- 26. 11月30日(火)
- 27. 11月29日(月)
- 28. 11月28日(日)
12月25日(土)
旧新約聖書の要約と言われているみことばです。愛する者のために贈り物をするとき、長い間その人のことを思いつつ準備をします。神は私を愛して、永遠の初めから愛の内に最高の贈り物を準備してくださいました。その贈り物とは、かけがえのない神のひとり子イエス・キリストでした。天上における父、子、聖霊の神の栄光を捨て、暗く冷たいこの地上に。さらには、私に代わって呪われた者として十字架にかかり、死んでくださいました。それによって「永遠のいのち」という贈り物にあずかれるのです。数々のクリスマスプレゼントも、この贈り物なくしては意味がありません。
主よ、人々が「神の愛を受け取る」ことができますように。また、「神の愛が自分のためである」と知ることができますように。良いクリスマスを。

12月24日(金)
なぜ人間のあかちゃんが救いのしるしなのでしょう。考えた事がありますか?
わたしたちの多くは、自分から見た自分像に捕らわれています。ですがあかちゃんと向かい合うとき、例えどんなに惨めなわたしだと思っていても、無条件に愛され、求められ、必要とされます。その時、最も無垢な存在が見ているもうひとりの自分像に出会います。
世話をするために自分の持っているものを与える事で、相手そのものを与えられます。そのつながりは、わたしたちの欠けを満たし、壁を壊し、最も奥深いところを変えていきます。
大人になったイエスに触れた人たちの中には、からだの障がいや心の病さえ癒された人達がいました。例え社会的に蔑まれていても、受け入れられ、求められている自分を見いだした人達がいました。わたしたちを根底から変えてしまう、愛そのものに触れたからです。
イエスはわたしたちと直接触れ合あい、癒やすために人間として来られました。わたしたちは値高く、尊く、深く愛されている神の子なのだと目覚めさせるために無垢な姿で来て下さったのです。わたしたちは皆、神の独り子がご自分のいのちを与えるほどに、愛される価値のある、聖なる存在です。

12月23日(木)
この世界が創造されたときから神様の意志を行われる「ことば」が存在しました。ことばによってこの地が創造され、ことばによって私たちが創造され、ことばによって神様の御心が行われます。そして、その方が人となられ、栄光の光を今日も照らしています。
今日も私たちを生かしてくださっているいのちはどこから来ているでしょうか。
神様の語られた御言葉はただ、私たちに知識や情報を与えるのみでなく今日も私たちの力となり、呼吸となり、いのちとなります。
イエス・キリストはことばそのものとなり、今日も私たちを生かしてくださいます。
今日も私の口から流れることばによって人を生かしください。希望の光を語らせてください。イエス・キリストがやがて来る日はことばによって成し遂げられます。

12月22日(水)
主は再び来られる。しかもすぐに。
私たちはこの日をどんなにか待ち望んできただろうか。
この日に至るまで主から授かった冠を決して奪われない様に守り続けよう。
この冠は主の復活の勝利の証である。
勝利者は新しい神の都エルサレムの神殿の柱となる。
そして主の永遠の臨在の中で堅く守られ続ける。
この約束は主が天から下ってきて王となられた時に実現する。
そして私たち神殿の柱に主イエスの新しい名が記される。
この新しい名は一体どの様な名なのだろうか。
この奥義が開かれたとき私たちは激しい喜びで満たされることだろう。

12月21日(火)
魂の渇き
これほど人を惨めにさせるものはありません
これほど人を愚かにさせるものはありません
これほど人に絶望を与えるものはありません
私はどうしようもなく渇いていました
この渇きを永遠に満たすために、尽きない泉を与えるために、
あなたは来て下さったんですね
あなたと話しているこのわたしがそれです-この瞬間です
荒れ狂うように激しかった渇きが凪になったのは

12月20日(月)
沢山の間違いがそこら中に蔓延っている。貧しい人たちは蔑ろにされて、人権もない状態だった。訴える声にも寄り添わず、逆に虐げられ、不条理な世界が目の前に広がっていた。
大切な神との約束、憐れみと互いに尊重しあう人間関係が失われていった。ただ苦しみの方向へと進んでいた。そして、とうとうその時はやってきた。町は崩れ始め、他国に侵略された。現状への怒り、心に蔓延る痛み、先の見えない途方もない暗闇。途方に暮れた。
そんな時、一つの幻が語られた。厳しい状況に変わりはないが、しかしその人々の只中にイスラエルの神が一緒にいた。その方の語る声に耳を疑ったが確かにこう言った「わたしはわたしの民イスラエルの繁栄を元通りにする」。
荒れた町は再建へと。失望から回復へ。その言葉は希望の光を指していた。それは近い将来かもしれない。遠いかもしれない。しかし、その光の方に呼ばれている。それはイスラエルの神が考えている回復と希望への道だった。そして、とうとう希望と回復が動きだす。このメシアの誕生によって。

12月19日(日)
クリスマスの出来事は人の目には不思議だ。
神が人となってこの地上に来られた。その誕生は王宮でも病院でも、暖かい部屋でもなかった。人々から閉め出された家畜小屋で、ふかふかの布団も無く、餌を入れる飼い葉桶に寝かされた。社会の底辺で、貧しく、弱く、苦しみ、病の者と生涯を歩まれた。そして人々に蔑まれ、捨てられ、十字架で処刑された。
この方が神とは思えないー。
しかし、主イエスは蘇られた。死から私たちを解放し、神と共に喜び生きる命を与えられた。
神が私たちの社会の、心の一番暗い、汚いところに来てくれた。
だから私たちには希望がある。
神は私たちを捨て置かれない。神は私たちを愛する故に、私たちに答え、目を留めて下さった。
それがクリスマス。
今も神はあなたの苦しみ、痛み、悲しみを共に担ってくれている。
喜ぼう。この場所から。辛くても、苦しくても、必ず神の助けがある。
神の愛、恵みと憐れみで私を、全ての人を包んで下さい。

12月18日(土)
キリストがこの地上に初めて来てくれたことを祝う降誕節。
私たちはそのキリストが、再びこの世界に来ることを待つ民です。
それは、キリストがこの世界に来た時、悲しみがなくなるから。
失ったものも、手に入らなかったものも、もう会えないあの人も、変えることができなかった自分自身も…神の前ですべてが新しく良いものへと変えられる。
この世界が悲しみと決別する日、それがキリストが再び来る日。
でもその日を、私たちは知りません。
いつなのか、どういうふうに来るのか…。
クリスマスにやってきたキリストは、誰をも傷つけない、小さな赤ん坊の姿でやってこられました。
だから再び来られるときにも、私たちを無駄に傷つける方法ではないような気がします。
「あなたは知らなくても大丈夫だよ。でも、必ず来るからね。待っててね。」
そんなふうに主は暖かく語り掛けておられます。

12月17日(金)
一日の終わりにその日を振り返って、みこころに適っていただろうかと思う事があります。それはとても難しいように思えます。
ですが、実際には逆なのです。わたしが神のために働いているのではなく、わたしを通して神が働かれている。だからわたしの今日一日は、自分が思う所を遙かに超えて、神の祝福があふれ出ていたのです。
神の家を建てるという的外れな事をしようとしたダビデに、主は応えてダビデの子孫によって永遠の王国を建てるという約束をされました。その約束は長い年月の後に現実となり、アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストと呼ばれる方が現われ、そこから全人類への祝福が流れ出ました。
そして今はわたしたちを通して、祝福が流れ出ています。なぜならわたしたちこそこの歴史の最前線にいるいのちだからです。わたしたちは祝福の基(もとい)です。

12月16日(木)
トントントン、トントントン、と、扉をノックする音が聞こえてくるのを私はまだかまだかと待っている。私は食事の支度をしながら、愛するあなたを迎えるのを待っている。
あなたはどんな格好でこられるのか、私の料理をどんな顔で食べてくれるのか、あなたとどんな会話をするのか、そんなことを考えると喜びでいっぱいになる。そだって愛する方がこられるのだから、ずっと待ち望んでいた方が来られるのだから、イエスキリストの訪れを

12月15日(水)
ヨセフはマリアとともに、神の偉大な救いのご計画のために選ばれた人物でした。あらためて「ダビデの子ヨセフ」との主の使いの言葉が心に響いてきました。メシヤはダビデの家系から。ヨセフは、信頼と愛を育ててきた婚約者マリアの思わぬ出来事に、苦悩と暗黒の中に悶々としていました。その間のマリヤの沈黙の姿にも多くを学びます。解決はいつも神様からはっきりと来ます。「その胎に宿っているものは聖霊による」との、マリアとメシヤについての解き明かしに、ヨセフの暗雲は一気に晴れました。ヨセフもマリア同様、神から負わされた自分の十字架があり、立派にその役目を果たしました。
主よ、神の最善を信じて、これからもいろいろな試練、重荷を前にしながらも、主と共に歩み、使命に生きる喜びを教えてください。

12月14日(火)
私たちは生きている間に誰しもが、痛み、苦しみ、悲しみといった経験を通ります。それは肉体的なものもあれば、精神的にも関わってくるものもあります。イエス・キリストも公生涯において肉体の苦痛を感じ、友の死に涙し、大衆の前で屈辱的な扱いをされました。神であられる方が、私たち以上に低くされ、そして私たちの痛みすらも共感してくださるのです。
しかし、私たちが生涯で味わうのは苦しみだけではなく、喜びや、楽しみ、癒し、希望といった経験も通ります。この方がおられるから、輝く希望。この方によってもたらされる光。
やがて来るその時を楽しみにしているのは私たちだけではなく、イエス・キリストご自身もきっとそうなのではないでしょうか。

12月13日(月)
ついにその日が来た。
ひたすら待ち望み続けた正しい審判者の到来。
私たちは「義の栄冠」を授かる。
「義の栄冠」は命の律法に基づく正しい行いに対する勝利の報賞である。
なんと素晴らしいことであろうか。
これは使徒パウロだけでなく、
主の再臨を待ち望む私たち全ての人と結ばれた約束である。

12月12日(日)
主よ、この世に来られたイエス様を通して、私たちはあなたの下に立ち返るという望外の幸いに与ることができました。憐れみに満ちたあなたの眼差し、あなたの温もり、あなたの赦しの口づけを、ありがとうございます。今私は、やがていつの日か、あなたにまみゆることに希望を頂いて、日々の営みに励んでいます。そのとき……そのときあなたは、もう一度、慈しみに満ちた眼差しで私を見つめ、駆け寄って抱いて下さり、歓迎の口づけを下さることでしょう。やがてその日が来る、必ず来る。それが私の希望です。アーメン

12月11日(土)
活気に満ちていたこの町が全く別物になっていた。昔は神殿があり、毎日、神への礼拝が行われており、人々の中心には創造主なる神がいらっしゃった。神はこの町の中心であり、人々の生活の中心だった。しかし、やがて時が経ち人々の心は神を忘れてしまい、この町は崩壊に進んで行った。
今では、崩壊した町の跡しか残っていない。住んでいる人達はいるのかどうかもわからない。町の象徴であった神殿も廃墟と化している。過去の栄光は無惨に過ぎ去っていった。しかしある日、その町に対して語りかける声がする。起きよ、光を放てと!
なぜならそこには以前光を放っていた神の臨在が訪れるから!崩壊した町が再建され、また新しい光を放ち始める。そんな将来を語る声であった。その声は将来を創造するような声であった。もう一度立って光を放つ時が来る。再建される。崩壊から回復を象徴するそんな町と人々である。そんな事を今の僕らにもこの言葉は語りかけているのではないだろうか。

12月10日(金)
イエス・キリストはその生涯、貧しい人や病の人、罪人と呼ばれ社会から追いやられた人々に歩み寄り、寄り添い、共に生きた。
イエスに出会い、イエスに信頼した人は病を癒されたり、悲しみ苦しみから解放された。
その時、神の恵が、確かに彼らに注がれ、自由にされたのだ。
豊かな日本で、私たちは貧しい。他者を愛することに貧しい。自分を愛することに捕らわれている。神からも、他者からも目を背け、見えない、盲目な私たち。
そんな私たちの「今」に神は介入される。
あなたが恐れることなく、捕らわれることなく、自由に神と人とを愛せるように、主イエス・キリストは人となられた。
愛に貧しい私たちに真実な愛を示し、神が見えない私たちに神を知らせてくれる。
イエスを通して、私たちは神を知り、愛する者へと変えられていく。
恵が流れる─。
神と人を愛するのを妨げているものは何だろう。
神よ、私を愛する者へと変えて下さい。

12月9日(木)
大事にしていたのに、大切に想っていたのに、もう二度と触れることができない、近づくことさえできない…そういうものが、生きてくるとひとつふたつあるものなのかもしれません。
人生は、小さな絶望であふれています。
けれども小さな絶望を抱える私たちに、ことばをかけ、たゆまぬ力をもち、永遠に庇護し、平和をもたらすキリストが与えられている、とイザヤは語ります。
それは万軍の主が私に対して「熱心」だから。
小さな絶望を抱える私と、そしてあなたに、心を集中し打ちこんでいる神がいるから。
そしてその方は、私とあなたを堅く支えてくれるから。
それならばあと少しだけ、とりあえず今日…絶望の中を生きることができるかもしれない。
そんなふうに思うのです。
主よ、あなたの私への熱心とその力を知る者へと変えてください。今より、とこしえまで。

12月8日(水)
この状況がいつまで続くのかわからない、出口があるのかもわからない。荒野の旅はわたし達をひどく不安にさせます。時には元いた場所に戻りたくて、振り返って立ち止まる事もある。今の世界や人生のある時期、わたし達は荒野にいる事があります。
どうしたらいいのでしょうか。不安な時が過ぎるのをじっと待てばよいのでしょうか?
良い手立ては、わたしたちが目的地に向かって旅をしているのを思い起こす事です。
待つ事と旅をする事には深い関係があります。旅の間の多くの時間は、実は待つ時間であり、旅を楽しむ秘訣のひとつは、待つことを楽しむ事です。
そしてもうひとつは、決して独りで旅をしているのではないと思い出す事です。
わたしは、いつもあなたがたと共にいる。これこそ旧新約全体を貫く約束のことばです。

12月7日(火)
あなたは私の神、王の王、すべてを治める方あなたは私を創造し、私を形造られました。そしてあなたが創造されたこの世界に私を置かれました。あなたが創造された世界を見るとあなたの偉大さ、力強さ、その大きさを感じただただひれ伏します。あなたこそ栄光と誉を受けるにふさわしい方、私の神、王の王、すべてを創造され、すべてを治める方。
私はあなたをほめたたえます。真の神、救い主、イエス・キリストの御名を賛美しほめたたえます!

12月6日(月)
歴史を二分するこれ以上ない重要なメシヤの誕生です。その時がいつ、どのように来られるのか、どこに出現されるかは一大関心事でありました。「パンの家」との意味を持つベツレヘムは、エルサレムから南8キロの小さな村でした。ヤコブの妻ラケルの葬りの地、ルツがボアズと結ばれた地、その子オべデの子エッサイの子ダビデが羊を牧しつつ成長し、油注がれた地でした。その地にダビデの子イエス・キリストが誕生。神は救い主の誕生の地を「ユダの氏族の中で最も小さい者」の内から選ばれました。しかも永遠の昔から定めておられました。
主よ、感謝します。神の選びは世の選びと大きく異なります。「無に等しいものを選ばれた」。このみことばと事実の前に、へりくだりましょう。

12月5日(日)
動揺、不安、敵意、怒りなど、私たちの心の水面はいつでも簡単にかき乱され、濁り、嵐のように波打つとき、映し出されるはずの神様の御わざも、語られるはずの神様の声も見失ってしまいます。
失いたくないものを失うかもしれない。
自分は一人かもしれない。
そんな嵐の水面に大凪が広がります。
私はあなたとともにいる。
凪によって澄んだ水の向こうには、インマヌエルと呼ばれる方の姿が。
凪によって映し出された水面には、神様の光が。
今、ともにおられる方の声に耳をすましつつ。

12月4日(土)
ついにその日が来た。
待ち望み続けた主の再臨。
なんと素晴らしいことであろうか。
その時私たちは、
たとえ肉体が朽ちていても新しい体を授かって復活し、
空中に携え挙げられる。
そして永遠に主と共に過ごすのだ。
想像を絶する主の恵み。

12月3日(金)
主よ、私たちには正しい王が必要です。このように闇が深く無数の破れ目がある地において、公正と義を行って下さる真の王が必要です。そのお方によってこそ、私たちは救われ、安らかに住むことができるのです。
主は、散らされ彷徨い歩く私たちを憐れんで下さり、「主は私たちの義」のお方を送って くださいました。ありがとうございます。このお方によって、このお方によってこそ、この地は新しく造り変えられます。水が海を覆うように、公正と義が闇や破れ目を覆い尽くすことでしょう。一点の曇りもない主の平和が実現するでしょう。ですから、このお方は「主は私たちの義」です。アーメン

12月2日(木)
地は茫漠としており、混沌な状態。そこには体系だった形は何もなかった。周りは暗かった。暗闇か全てを覆っている。そのような状況、状態、環境であり、命を示すものは何もない。そのような時に神は言葉を発した。力強い言葉だった。その言葉は茫漠、混沌、暗闇と違った力を持っていた。光、あれ! その瞬間に光が状態に変化をもたらした。
今までの状態と在り方に新しい意味をもたらした。秩序の始まりがあり、命を支え、時間の区分が始まろうとしていた。とても美しく、壮大で、素晴らしい何かがはじまろうとしていた。
コロナ禍で世界が混沌に落ち入り、人との距離は格段に広がった。時は流れていても不安からは脱出も出来ない。収束するのか見通せない暗い状況の中、神が語った「光、あれ」というこの言葉。ここに僕たちは光に照らされて、命の在り方、先への希望を見出す事が出来るのではないか? その光は「何かが始まる」という期待へと僕たちを連れていく。

12月1日(水)
自分は何者だろうか──。
忙しい、評価が得られない、愛されていないと感じる、不安、病、孤独……。
目の前の状況に振り回され、感情に蓋をするうちに、自分がどうしたいのか、自分はどんな存在なのか、わからなくなることがある。
神は言われる。
「あなたを愛している。あなたには価値がある。何ものにも代え難い価値が。」
その現れがクリスマス。
神であるイエス・キリストが人となった。
そして自分の命を十字架で投げ出すほどにあなたを愛された。
それは今、あなたが押し流されそうな現実の中で、神の手をとり共にこの命を生きるため。
神に愛され、与えられた命を。
「あなたはわたしのもの。」
だから恐れなくていい。どんな時もあなたの存在そのものが高価だと言われる神が共にいる。
神と共に生きる命は尽きることがない。
神の愛もまた尽きることがない。
愛される喜びに満ちた命がここにある。
あなたは今日も神から差し出された手をとっているだろうか。

11月30日(火)
「約束の民って苦しい。」
そんなことを感じることはないでしょうか。
約束の地への旅は厳しいもの。
歩む大地はカラカラで、身の回りは雲が濃すぎて半歩先しか見えない。
けれどもそんな濃い雲の中で、主はモーセに、そして私に臨まれます。
約束の民って苦しい。
それはやっぱり変わらないのだけれど…濃い雲の中で半歩先だけを照らしてくれる神様は、今日も明日も明後日も、やがての日までずっと私たちと共に歩まれる。
「約束の民、苦しいです。」
そう呟きながら歩む道のりの半歩先は、ぼんやりかもしれないけれど今日も照らされていて、神と共に在るのです。

11月29日(月)
あなたがたを捨てて、孤児としない。
そう聞いた時、ここしばらくの間、世界が神から見捨てられたのではないだろうかと思える日々だった事に気づきます。誰しもつながりが遮られて、孤児のように寂しかった事に。
しかし、イエスは十字架に渡される前の夜、寂しさを恐れる弟子たちを慰めるように、繰り返し約束されました。
もう一度、戻ってくるよ。
じゃあいつ戻られるのでしょう? それは、私たちの為に場所を用意したらと言われました。イエスが来られるという事は、居場所(ホーム)が用意されたという事。私たちには還るべき家があり、約束を信じてお迎えを待っているのです。
神の約束は必ず叶う、クリスマスはそのあかしです。私たちはかつての日を想い出しながら、主イエスが再び来られる日を待ち望んでいるのです。

11月28日(日)
いつかくる、それはいつか来る、それは約束されている。ずっと楽しみにしている。苦しい時もあった、悲しい日もあった、涙を流すこともあった。しかしその日が来るともう涙を流すことも、悲しみも苦しみもない。あなたにお会いできることが出来れば今までのことはきっと、千年は一日のように吹っ飛ぶのだろう。ずっと待ちこがれていたあなたに会えたのだから。そして見たこともない情景が目の前に広がっているのを見て、私は感動するのだろう。私はその日を心から待ち望む。イエス様の再臨を 神の国を! 完成を!
