聖契神学校2025年度「霊性の神学Ⅱ」クラス作成
監修 吉川直美
聖契神学校の「霊性の神学」クラスでは、毎年、学生がアドベント(待降節)からクリスマス(25日まで)の黙想を作成しています。
今年度は、アドベント1週目から週2回、黙想をアップしていきます。
12/1, 12/4, 12/8, 12/11, 12/15, 12/18, 12/22, 12/25 の8回です。
0 時にアップしていきますので、黙想のために用いていただければ幸いです。
なお、個人名は記載しておりませんが、著作権は「霊性の神学」クラスにありますので、無断転載、引用等はご遠慮ください。

12月25日(木)

ルカの福音書 2章10~11節
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。



聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

羊飼い。
当時社会でもっとも身分が低かった人々。
町の中にいる人々を遠目に見ながら、惨めな思いで過ごしていた。
毎日羊を見ながら、「自分は何のために生きているのだろう」と。

み使いが彼らのところにやって来た時、彼らは恐れた。
神の栄光は私たちの本質を見抜く。
惨めな自分たちの本質を見抜かれるのは恐ろしい。

これは、そんな羊飼いたちに告げられた言葉。
「”救い主”が生まれた」と言う。
しかも私のために。

キリストは、生きる意味を失った人々のために、自分の価値を失った人々のために、
あなたのために生まれたのだ。

キリストは、私たちの本質を見抜かれた上で語られる。
あなたは愛されている。

クリスマスとは、私たちが愛されている存在であることを確認し、
この私のために生まれたキリストを喜ぶ日なのだ。

12月22日(月)

ヨハネの福音書1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。福音書 2章1-2節
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」


聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

ここに記されている「ことば」とは、人の言葉ではなく、真理のことを指しています。
 
私たちの生活の中には様々な「言葉」が私たちの耳と心に充満していませんか。
皮肉、嫌味、悪意、うわさ、誹謗中傷、罵り…
これらの言葉にどれほど注意を払おうとしても、
結局は耳に入り、頭の中でぐるぐるして、私たちの心が奪われ、傷められてしまう。
  
どうすればそのような「言葉」による攻撃から逃れることができるのでしょう。

イエス・キリストは恵みと真実に満ちておられる方だと、
ヨハネはこのことを体験して聖霊とともにこの「真理」を聖書に書き記しました。
私たちはただこの「真理」であるイエス・キリストに留まることによって、
あらゆる攻撃的な「言葉」から心を解放されます。

この第4週目のアドベントにおいて、
イエス・キリストの誕生を吟味しながら、
「真理」であるイエス・キリストが私たちの耳と心に住まわれ満ち溢れますように。


  

12月18日(木)

マタイの福音書1:20-23
聖なる夜の訪れ:神がともにおられるという奇跡

彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

静かな夜。心が深く沈むような沈黙の中で、ヨセフは眠りにつきました。すべてが手からこぼれ落ちていくように思えた夜。信頼も、未来への計画も、愛する人への思いさえも、触れれば崩れてしまうガラス細工のように脆く感じられた夜。

人は誰しも、そのような夜を知っています。
祈りが届かないように思える夜、
問いが答えを拒む夜、
自分の人生が予定していた道から大きく外れてしまったと気づく夜。

ヨセフもまた、その夜にいました。
しかし、その沈黙の深みに、ふいに光が差し込みました。
夢の中で天使が告げます。
「恐れることはありません。」

そのひと言は、優しい腕のように、固く凍りついたヨセフの心に触れました。
「恐れなくていい。あなたは独りではない。
この不可解な出来事の中にも、神は働いている。」


胎に宿った命―それは混乱ではなく、神の約束でした。
「その名をイエスとつけなさい。」
その名には使命がありました。
救うために生まれてくる方。
罪の重荷に押しつぶされる者に、解放を告げる方。

「インマヌエル―神が私たちとともにおられる。」

それは、疲れた心にそっと置かれる毛布のような言葉。
暗闇の中で消えかけたろうそくが、再び温かく灯るような言葉。

神は遠くありません。
天の高く冷たい場所に閉じこもっているお方ではありません。

神は、わたしたちとともにいる。

涙が溢れる夜にも、
希望が見えない朝にも、
祈りが言葉にならない瞬間にも。


アドベントは、待つ季節です。
しかし、それはただの時間の経過ではなく、
「神は来られる」
という約束を胸に抱いて待つ時間です。

今日、この言葉を心に置いてみましょう。

インマヌエル。
神が、私とともにおられる。


灯火のようにその名を胸に灯しながら、
来られる方を静かに待ち望みましょう。

12月15日(月)

ルカ19:1~10節
 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」  


新共同訳

ザーカイは徴税人の頭で金持ちでしたが、人々からは罪人とされ、遠ざけられていました。そんな彼を、イエスさまは群衆の中から見上げ、名を呼ばれました。ザーカイが必死に捜し求めたのではなく、救い主のほうが彼に会いに来られたのです。失われたものを捜し出し、救うために。
 
今日、救いは私たちの家にも訪れます。
失われたものを捜し出し、名を呼び、救いへと招いてくださる主を、ザーカイのように心を開いて迎えるものとなれますように。
そしてその救いが世界へと広がりますように。

12月11日(木)

ヨハネの手紙 第一 4章9-10節
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。


聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

あなたには、愛する存在はいるでしょうか。
私たちは、愛する存在に多くの時間を費やします。

しかし、私たちがいくら愛したとしても、その相手から同じだけの愛が返ってこないことがある。
自分の愛の足りなさを突きつけられることがある。
そうすると、私たちは愛とは何か、わからなくなります。

2000年前、神さまは見える形で、私たちに愛を示してくださいました。
それは、無条件の愛です。

私たちがどれだけ神さまを裏切ったとしても、神さまを知らずに過ごしていたとしても、
今もその愛は私たちに注ぎ続けられている。

この愛に触れる時、私たちは愛とはなにか教えられます。
この愛に触れる時、私たちはいのちを得るのです。

12月8日(月)

マタイの福音書 2章10~12節
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 

 

聖書 新共同訳

遠い東の国から星を頼りに旅した博士たち。その道のりは決して平坦ではなく、一人ではたどり着けなかったかもしれません。それでも彼らは「救い主に会いたい」という一心で歩み続けました。家に入ると、幼子イエスと母マリアがおられました。彼らはひれ伏し、幼子を拝み、喜びをもって最も大切なものを献げます。それは、救い主との出会いに対する精一杯の応答でした。
そして彼らは「別の道」を通って帰っていきました。もう以前と同じ道を歩むことはできなかったのです。

私たちは何を献げることができるでしょうか。
救い主との出会いが、私たちの歩みを新しくし、その喜びが世界へと広がりますように。

12月4日(木)

イザヤ書53章2-5節
彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。


聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

世の中には容姿、ファッション、振る舞いを強調する雑誌や本やSNSが世の中に多く発信されています。それらの価値観や情報に心が掻き乱れたこともあるでしょう。他人をマネしたり、流行に流されたり、いつの間にかありのままの自分を受け入れなくなることもあるでしょう。
ナザレのイエスは人から羨ましい容姿と仕事(大工の息子)がありませんでした。
しかし、神はイエスに「これは私の愛する子です」と言い切っています。
秋の紅葉は一見すると同じように見えますが、実は一枚一枚は違い、唯一無二の存在です。これこそ神様のすばらしい創造の力です。
そして私たち1人1人は神の似姿に創られていて、それぞれ特別で貴重な存在です。


12月1日(月) 
「主は私たちの義」と呼ばれる方を待ち望む季節に

エレミヤ書23章5−6節
「見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。『主は私たちの義』。それが、彼の呼ばれる名である。」 
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

静かな冬の空気が満ちるころ、
街は少しずつ光をまとい始め、
私たちの心もまた、どこからともなく差し込む小さな希望の光を探し始めます。

エレミヤは、混乱と絶望のただ中で、
人々が未来を描くことすらできなかった時代に、
「正しい若枝が起こされる」と告げました。
荒れ果てた切り株から、不意に緑の芽が顔を出すように、
人々の想像を超えた救いが、静かに、しか
し確かに始まることを約束したのです。

その若枝は王として治め、
公正と義をもたらすと語られています。
けれど私たちが待ち望むそのお方は、
力で押しつける王ではなく、
疲れた者を抱きしめ、
壊れやすい心に温もりを吹き入れ、
涙の意味を知ってくださる、
柔らかい王として来られました。

「主は私たちの義」。
この名は、私たちが自分の強さや正しさで立つのではなく、
主の恵みと愛のうちに生きる者であることを示しています。
私の弱さが明らかになる冬の季節に、
主がそっと寄り添い、
“あなたはもう大丈夫だ”
と語ってくださるような名です。

アドベントは、ただ日めくりがクリスマスへ進む季節ではありません。
主が来られるその道を、心の中にゆっくり整える時間です。
焦りや恐れを少しずつ手放し、
「正しい若枝」が私の人生の荒れ地に芽吹くのを待つ時間です。

今日、あなたの心のどこかに
寒さで固まってしまった場所はありませんか。
もう芽が出ることはないと思い込んでしまった場所はありませんか。

その場所に、主は来られます。
その場所にこそ、若枝は芽生えます。

アドベントの静けさの中で、
「主は私たちの義」と呼ばれる方の到来を待ち望みながら、
その約束があなたの心に再び暖かい光となって灯されますように。